ヒビノケイコです。
まいにち寒いですが、
お元気ですか?
最近、よく
「けいこさん自身は
どんな勉強をしてるんですか?」
と聞かれることが。
仕事をしながら学ぶことは
社会人になってからずっと
続けてきたのですが、
いまは東京でインプットのためのクラスと、
地政学・西洋哲学史などのクラスに参加しています。
参加されている方は、おもに経営者の方が多いけれど
なかには主婦や大学生、サラリーマンの方も。
ノウハウばかり学ぶのとは違って、
これらの知恵は、
生き方の参考になったり時代性をつかむ役にも立ち、
ビジネスに生かせるのがおもしろい。
そのひとつ、
インプットクラスがとても面白いので、
どんなことを学んでるのかちょっと紹介しますね。
どれだけ自分のバイアスと解釈で生きてるかわかる読書の時間
1年かけて、 ジョンロックの本を
読み解いていくクラスに出ている。
「どんなものもなるべく原文で読めるようになりたい」
「良質なインプットができるようになりたいなあ」
と思って参加してる。
例えば「知性」「観念」などの言葉を
ジョンロックはどのように定義しているか?
それぞれの関係性は?ということについて
ディスカッションしていく。
本を読むとき、わたしたちはほとんどの場合
「自分がどう思ったか?」ですぐに解釈しようとする。
でも、このクラスではあくまで
著者がどう考え、どう書いてあるのか?
をとらえ、話し合う。
気がつくのは、
「同じ本を読んでいてもここまで人の解釈は違うんだな」
「人はすぐに自分のバイアスで
ものごとを簡単に解釈してしまうものなんだな」
ということ。
言葉の使い方、
とらえかたの前提は
人によって全く違うものであり、
「ふだん人と同じ言葉を使ってる」
と思うのは間違いなんだなと。同じ日本語でもね。
言葉の前提、定義を共有するところから、
対話をする必要性が身にしみる。
こういうところもふくめ、みなさん
仕事やふだんの人間関係に生かしている。
やきもき、もぞもぞ答えのない時間にたえられるか
ときには(というかいつも)
ディスカッションが平行線をたどり、
5時間たって終了ということもあるし、
やっと合意に達したかと思えば、
覆されてまた最初から・・・となることもある。
イライラしたり
もぞもぞしたりする
その時間。
これがまた、「答えのないもの」に
向き合う姿勢の勉強になり、
「一冊読みきることがゴールなのか?」
「早く合意に達することが良いことなのか?」
といえば実はそうでもないことにも
気がついて、面白い。
存在論と認識論
中でも、このあいだの
クラスはおもしろかったなあ。
2つの言葉をざっくり「=」
でつなげるかどうかで議論が起こっていた。
例におきかえると・・・
「H2O」と「水」では指し示している
「もの」としては一緒だから、
「=」と言っていいででしょ、という人と
「いやいや、指し示しているものは一緒でも、
文脈によって定義が違うのでは?」
という人のあいだでスタンスの違いが出て、
かみ合わなかったのだ。
(塩を、化学実験に使うときは
塩化ナトリウムというけど、
料理に使うときは食塩というよね、
それは物質としては同じだけど
意味合いでは違うんじゃない?みたいな感じ)
先生は、これを
「存在論」から始まっている人は、
「=でいい」ととらえ、
認識論で捉えている人は
「ちょっと違うんじゃ?」という見解になる、
と説明してくれた。
つまり、どの立場で読むかで、
解釈にスタンスの違いが出る。
例えば、同じ球技でも、
野球選手から見るか、
サッカー選手から見るか、
ゴルフ選手からでみると全く違う。
そのなかで、まず
「自分はどのスポーツをしてる選手か?」
という立場を理解することが、大事だと。
いつもはみんな知らず知らず
自分を絶対化している。
まるで、みんな同じスポーツを
してるかのようにとらえて、
同じ言葉を使ってると
思いこんで使っている。
でも、実際の世界は違う。
自分の立場を絶対化した場合、
その行く末は原理主義になり、
争いになってしまう。
まあ、野球選手がサッカー選手を見て
「あいつはボール蹴ってて間違ってる」
とか言ってもなんにも生み出さないよね。
正しい、正しくない。裁き。
それは、貧しい考え方にしか至れない。
「本来はなんらかのかたちの
調和にいたれるはず」
と先生は言った。
「そのためには、
一回すべてのものが相対化されないと、
絶対化されたままでは至れない」と。
だからまずは、
自分の相対化をする訓練が必要。
野球選手が、自分は野球選手であることを
理解すること。
相手は自分と同じ野球選手ではなく
サッカー選手であることを認識すること。
違うスポーツであることを認識すること。
そこから全てがはじまる。
みんなそれぞれ、の究極
ただ、相対主義だけで進むと
「みんなそれぞれだよね」で終了する。
それぞれがかけてる世界への
色眼鏡は外せないことが
前提になって、会話が成り立たないまま。
「みんなそれぞれだから、それでいんじゃないの?」
それが行き過ぎると究極、例えば
目の前で窓から飛び降りて死のうとしてる人がいても、
「その人がそう思うんだから、好きにしたらいいよね」
と止めない、ということにもなる。
でも、先生は「たぶん、自分はとめる」と言っていた。
それが生物としては現実的だと思う、と。
死にたい人に、
その人に通じるなんらかの言葉で
死ぬな、と話す力をつける。
そのとき、相手の色めがねについて
理解することができていると、
一瞬止まってくれる可能性が高い。
完全に人の色めがねをかけることはできないけど、
一瞬かけて、ある程度通じる話すことはできるんじゃないか。
それで死ぬのがとまれば、何かしらひとつ
乗り越えていけるんじゃないか。
種と育てること
この話、とても面白いなあと思ったんだけど、
そのあと疑問がわいたので質問した。
「その瞬間その人が死ぬのを止めることはできたとしても、
相手の色めがねがそのままで、視点がそれまでと同じであれば
また死ぬという発想になっちゃうと思うんです。
そこについては、どうしていくのがいいと思われますか?」
「死ぬのを止めるときに全力をつくすこと。
その瞬間に、なんらかのきっかけとして、
相手にとって、新しいめがねのモトを
与えることはできているはず。
それから先は、相手が育んでいくかどうかによるね」
全力をつくして種は与えるけれど、
その先はやっぱりその人が育んでいくものなんだなあ、
と腑におちた。
取り外すより視点をふやす
混迷の時代だからこそ、
それぞれだからいいよね、を乗り越える何かがいる。
答えのないものに耐えながら、読み解くちから。
わたしたちは、
自分がかけている色めがねを外すことが難しい。
だから、取り外すことに労力をかけるより
めがねを増やしていくしかない。
あっちから、こっちから、そっちから。
色めがねを1つしか持ってないと
自分を絶対化してしまうけれど
100個持っていれば、もうすこしだけ
360度からものごとをみれることに近付く。
日々、自分の視点を増やし、
人のめがねについて理解し、
最善をつくすしかできることはないんだなあと思った。
学ぶことも、仕事も、子育ても。
そのめがねをひとつずつ増やしていく行為だと思って
大切にしていきたいな。
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