普段、田舎で暮らしていると様々な瞬間に出会う。


例えば、もう他に誰もいないある限界集落でのこと。






残り一家族になったおじいさんが、

毎日毎日、せっせと自分たちの家だけでなく、

その集落の大地、茶畑、神社を手入れする。





子供と遊びに行けば、

飼っている鶏の卵をとってくれ、

水車のまわる自作の池の魚をみせてくれる。





広大な土地を手入れするのは、

体力も時間もいる。




畑まで行く山の道の草刈だけでも相当のものだ。





若者でも大変なことなのに、

おじいさんは黙々といとわずに

毎日毎日、土地を清めるように続ける。






まんまるい茶畑と

何百年も前にきちんと積まれた石垣は

太陽にきらきらと照らされる。

空気は澄んでいて、

まぶしいくらい美しい。


私はこの光景をみながら、

瞬きをするのも 

もったいないと思った。





この瞬間と、このおじいさんの姿を、

一生覚えていたい。





これは、きっと、なんだかものすごく大切なことを含んでいる。

そんな気がした。




そして、

誰も見ていないのに、

誰も継いでいく人もいないのに、

このおじいさんは、

どうしてこんなことができるんだろう?




そんな風にも思った。

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このおじいさんのほかにも、田舎にはそういう人がたくさんいる。


「うちの山に、コツコツ10年間桜と花を植え続けてきた。

これをみんなで分かち合いたい。祭りをするよ」




「先祖が何世代も後の私達を思って植えてくれた山の木を一本一本選んで、家を作った。


 コストは逆にかかるし、木の大きさもまばらだけど、大事なことだから」




この人たちは、おそらく、

損得とか見返りを超えた視点で物事をとらえている。





しかも、長い長い眼でこの世をみている。

「なんでこんなすごいことが出来るんですか?」


そうたずねると、みんなさらっと、

「なんちゃあないことや(なんでもないこと)」と言う。





だけど、その黙々とした毎日の作業を見ていると、

これが「祈り」のようなものなのかなと思うことさえある。





私は、現代の都会で生まれ育ち、

知らず知らずのうちに、

「何かを得るために何かをするものだ」

そんな感覚が体にしみこんでいる気がする。




即物的で短期的。




もちろん、

今の社会システムの中で生きるためには、

ちゃんとその能力を使いこなして、

社会の中で生きることは大事だ。




長所は短所でもあり、

田舎の人を見ていると、

長い眼で見るのは良いけれど、

気が長すぎる点も感じる。




せっかくいいものを作れるのに、

利益を考えなさ過ぎて、商売が苦手。


その結果、受け継がれてきたものが、

続けていけなくなったりして、

もったいないなあ・・・

なんて思ったりすることもある。


ただ、現代の社会の中での

合理的な視点だけに偏ってしまうと、

ちょっとギスギスすることは知っている。




つまりは、幸せに生きるために

両方のバランスが必要ってことだと思う。

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私は田舎で暮らす中で、

今までに自分にはなかったような視野を感じ、

ものの見方がアップデートされていくことが嬉しい。






「見返り」とか「損得」を超えた視点とふれる瞬間。

山と人が敬意を持って触れ合う瞬間。





そんな時は、何だか言葉にならないような、

うっすらとした光を感じる。





声にならないような、

じわっとした涙と笑いが心に満ちてくるのを感じる。






自然の中の生き物としての人間が、生きるということ。

現代の社会システムの上での人間が、生きるということ。





私の中の生きることのバランスが、

両立して整っていく瞬間なのかもしれない。





最近、限界集落のおじいさんは、

体調を崩されて病院へ入ってしまった。





残された土地は、誰かがまた手を入れてくれるのを

待っているのかもしれないが、少しずつ野生化し、

「里山」でなく「山」に戻っていくのかもしれない。





あのおじいさんが見せてくれた、生きる姿。





現代において奇跡のような瞬間に、

立ち合わせてもらった気がする。





私は、それを遺産として

自分の中に刻みこみ、

生きていきたい。





そして、

そんな光のある瞬間を、

この世からこぼれおちないようにすくって、

誰かに伝えたい。