釈迦(ブッダ)によってインドで生まれた仏教が、没後広まる過程で、大乗仏教と上座部(小乗)仏教にわかれた。日本の仏教は、大乗仏教の流れを汲んでいるもので、人のためにという「利他」の心をはぐくむもの。それに対し、タイで信仰されている上座部仏教は、出家仏教ともいわれ、出家した僧侶が瞑想などの修行することによって、自らの苦から解放されるというものだそうだ。

出家仏教なだけあって、お坊さんの修行方法というのがしっかり確立されている。つまり、修行の根幹である瞑想というものの、そのやり方が確立されている。

瞑想には主に2種類あり、能動的な「サマタ」瞑想と、受動的な「ヴィパサナー」瞑想がある。サマタ瞑想では、イメージで光を動かしてみたり、心の中でマントラ(例えば、ありがとうとか、アーメンという言葉)を唱えたりして、意識を集中させて雑念が出てこないようにするもの。一方、ヴィパサナー瞑想では、あるがままに自分の気持ちや思考や体の動きを観察するというもの。行動にラベリングしていく方法もあるけれど(例えば、今○○を見た、今○○のことを考えたと、無意識にしていることを言語化するやり方)、プラユキさんがいるスカトー寺ではもっと自然な方法で、ただ「今、ここに、いる」ということに気付いているということを意識する「気づきの瞑想」を教える。

その、ヴィパサナー系の「気付きの瞑想」というのは、文章でどんな感じかを説明するのはとても難しい。私はヴィパサナー瞑想に関する関連書籍を、タイに行く前にほぼ読んだにも関わらず、読んだだけではまったく何のことやらわからなかったから。「あ、この感覚ね」というのがわかりはじめたのは、実際に体験してからのこと。

とにかく、私たちの頭というのは、いろんなことを考える力があるようだ。その力がいきすぎて、妄想にまで発展するようなことも考えたりもするし、ある考えに固執しすぎたりもする。忙しい現代人は、何でも頭で考えるので、自分の心の声を静かに聞けなくなっている。大自然の中にいると、その静けさというのはえられるけれども、せわしない都会ではなかなか難しい。

それが、瞑想することで、今にちゃんといられるようになると、自分の声というものもしっかり聴こえてくる。心時代、癒しの時代の現代では、瞑想というのは、今後当たり前に広まっていくだろうな、と思う。(和田清華)