京都のお寺に住んでいた頃、大きな大きな木が3本あった。
ムクノキ、まきの木、乳イチョウ。
この木のそばで暮らしたい、と思った。


巨木で、見上げないといけないムクノキはたけだけしく、空に向かってうねりながら踊っていた。ムクノキのくぼみに入って過ごしたり、抱きついていると、伝わってくる気配があって、好きだった。


まきの木は、いつも静謐にたたずんでいて、そこだけ時間がぴたっととまったような空間だった。木の前には大きな平たい石があり、そこで座ってみんなでよくお弁当を食べた。


笑ってるわたしたちの顔や、おべんとうの色、そして春は桜のはなびらがひらひら舞う姿を、いつも黙ってみている。そんな木だった。


乳イチョウは、秋になるとお寺の庭すべてを金色の葉っぱでうめつくした。きらきら金色の地面をざっざっと歩いて一枚だけはっぱを拾い、見上げてみるとあったかくそこにいる。ほんとうに母親みたいな表情の木だな。そう思ってた。


「そこに、木があるんだ」というよりは「そこに木がいるんだ」という方がわたしの感覚には近かった。


遠く離れた、今でもすぐ心のなかで触れられる。
何百年生きてきたのかわからないけれど、ここにその木があるから、それが育成されるだけの土地だから寺ができたのかもしれない。そう思わせられるようなエネルギー。 

 
存在そのものが愛、というのはああいうことをいうのだろうな。


いつもそこにいる。触れられる。
 時間も空間も超えて、ただいるだけで愛情を感じるもの。
それは、物質も植物も、生き物も、人も、同じことで。 

 
2015-06-28-13-26-35